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まずは実態の把握(3)

さて、今回は当テーマの3回目になります。前回のラストに書いた、「友達と会話が続かない」という話。この架空のクライエントの語りの一部分を読んで、みなさんは、その問題の性質や程度についてどう思ったでしょうか?


たとえば、発達障害を詳しく勉強している人なら、真っ先にその可能性(とくに社会性の障害とされるASD)を疑う人もいるかもしれません。でも、本当にそうでしょうか? 発達障害にしか見られない典型的な特徴、あるいは確たる証拠が述べられていたでしょうか? あるいは、障害を裏づけるような生育歴の情報が、十分に語られていたでしょうか? この場合、緊急性がなくても発達障害と見立てて、医療・療育機関、テスト機関、福祉サービスなどに即刻紹介すべきなのでしょうか?(もちろん、心理職は医師のような診断行為をしません。対応の仕方の話になります。)


ある病態や障害に特化して熱心に勉強していると、あらゆるものをそのレンズで見てしまう現象が起こりがちです。これはもちろん、対人援助の専門家にも起きることです。じつは、この架空の事例に関しては「さらに詳しく話を聞いていかないと何もわからない。まだ何とも言えない。」というのが偽りのない私の感想です。初めの情報を聞いて、見立ての可能性が絞り込まれて、見当がついてくるのは事実です。しかし、これだけの少ない情報で結論を出すのは、早合点と言われても仕方がありません。想定可能な仮説を立てながら、その後も観察し、聴き続けていく必要があります。


一時的な問題、環境の問題、性格、神経症、パーソナリティ障害、精神病、脳障害…など、まだまだいろいろな可能性が残されています。専門家が頭に浮かべる見立ての選択肢は幅広いです。当然、途中で発達障害に決定的な特徴の話が出てくれば、「発達障害疑い」として、相応の対応をすることになります。しかし、そうでなければさらに話を聞いていきます。


ところで、実際のカウンセリングではふつう、カウンセラー主導で根掘り葉掘り質問して実態把握をするわけではありません。クライエントが自分のペースで語ることをカウンセラーが傾聴し共感しながら、鍵となる情報に関してポイントを押さえて理解していくことになります。


最終的に発達障害の可能性が捨てきれないにしても、それ以前に具体的な困りごとの改善策としてやれることがあるかもしれません。ケースバイケースですが、服薬や療育以前に、生活習慣の改善とか、家族関係の調整とか、家庭レベルでできる基本的なことが不十分な場合もかなりあると思っています。このあたりの事情は、成田奈緒子著『「発達障害」と間違われる子どもたち』に詳しく書いてあります。興味のある方はお読みください。


わかったつもりになるのは、なかなか怖いことです。見逃している事実がないか気をつけながら聞いていくことが、よい傾聴を生み出す一つの要因になるでしょう。傾聴は無知の自覚に支えられていると思います。カウンセリングにおいては、個別のクライエントの事実に立脚しない、やみくもな(あるいは一律な)援助や対処は、よい結果につながりにくいと感じています。



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