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符牒(ふちょう)

更新日:5月27日

符牒とは、合い言葉や隠語みたいなものです。たとえば、商売などでお客さんがそばにいる現場などで使われる、同業者内でのみ通用する言葉のことを指します。カウンセリングの場に当てはめて言うと、臨床心理学やその関連領域(基礎心理学、精神医学、精神分析など)の専門用語も、広い意味でそれに相当するでしょう。


専門用語は曖昧性をそぎ落とすことで、意味する概念を明確化し、専門家や研究者どうしのコミュニケーションを促進するために役立つものであるはずです。しかし、研究者どうしでも立場が異なれば、意思疎通がいつも円滑に進むとはかぎりません。


そこら辺の事情は、以前ここのブログ記事(かみ合わない会話)で少し触れたことがあります。お互いの気質や関心、対象者が異なれば、同じ言葉で議論していても、違うイメージを頭のなかに描いている場合もときには起こりうるでしょう。しかも、最後までお互いにそれに気づいていない場合もありえます。


元来、心理臨床は多面的かつ複雑微妙な人間のこころを相手にするものです。そして、ますます多様化している心理臨床の世界を考えれば、同業者のコミュニケーションにおいて、この「食い違い」に気づき、乗り越えていく努力が不可欠だと考えられます。その際には、惰性化した言葉の使用を改めたり、自分自身の「当たり前」を疑う、あるいは相対化・言語化したりする作業が求められることもあります。


わかっているつもりは、なかなか怖いことです。神谷美恵子は『生きがいについて』(p83)のなかで、理解し合えたつもりになっている夫婦の例を挙げ、その理由として、「ことばというものが、いわば符牒のような役目を果たしていて、同じことばさえあやつっていれば、ひとによってその意味する内容がちがっていても、ひととおり通じ合ったような錯覚を起こすからであろう。」と述べています。


そして、「愛はこの『二つの孤独を一つに融合しようとする試み』なのであるから、愛はまず互いの心の世界を知ること、理解することの努力から出発すべきものなのであろう。」と続けています。


学問の世界においても、家族のような親密な人間関係においても、ほんとうの理解というものは普通に思われているよりもずっと難しい場合もあるのかもしれません。だからといって、相互理解をあきらめるわけではなく、多くの場合、ときに幻滅の悲哀とか、対決の緊張を繰り返しながらも、自分なりの歩み寄りを進めていくことが大事なのでしょう。


                              カワウ(葛西臨海公園)

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